2010年09月
2010年09月30日
2010年09月29日
名歌鑑賞・1247
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は
露にぬれつつ
天智天皇(てんじてんのう)
(後撰集・302、百人一首・1)
(あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わが
ころもては つゆにぬれつつ)
意味・・秋の田の仮小屋の屋根に葺(ふ)いた苫の目が
粗いので、夜通し小屋で番をしている私の着物
の袖は、こぼれ落ちる露に濡れていくばかりで
ある。
収穫期の農作業にいそしむ田園の風景を詠んだ
歌である。しかし、農作業のつらさという実感
は薄く、晩秋のわびしい静寂さを美ととらえた
歌である。
注・・仮庵=農作業のための粗末な仮小屋。「仮庵の
庵」は同じ語を重ねて語調を整えたもの。
苫をあらみ=「苫」は菅や萱で編んだ菰(こも)。
「・・を・・み」は原因を表す語法。「・・
が・・なので」
衣手=衣の袖。
作者・・天智天皇=626~671。蘇我氏を倒し大化の改新
を実現。近江(滋賀県)に都を開く。
露にぬれつつ
天智天皇(てんじてんのう)
(後撰集・302、百人一首・1)
(あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わが
ころもては つゆにぬれつつ)
意味・・秋の田の仮小屋の屋根に葺(ふ)いた苫の目が
粗いので、夜通し小屋で番をしている私の着物
の袖は、こぼれ落ちる露に濡れていくばかりで
ある。
収穫期の農作業にいそしむ田園の風景を詠んだ
歌である。しかし、農作業のつらさという実感
は薄く、晩秋のわびしい静寂さを美ととらえた
歌である。
注・・仮庵=農作業のための粗末な仮小屋。「仮庵の
庵」は同じ語を重ねて語調を整えたもの。
苫をあらみ=「苫」は菅や萱で編んだ菰(こも)。
「・・を・・み」は原因を表す語法。「・・
が・・なので」
衣手=衣の袖。
作者・・天智天皇=626~671。蘇我氏を倒し大化の改新
を実現。近江(滋賀県)に都を開く。
2010年09月28日
2010年09月27日
名歌鑑賞・1245
難波潟 みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世を
過ぐしてよとや
伊勢(いせ)
(新古今集・1049、百人一首・19)
(なにわがた みじかきあしの ふしのまも あわで
このよを すぐしてよとや)
意味・・難波潟の芦の、その短い節と節の間のような、
ほんのわずかな間も逢わないまま、私にこの
世を終えてしまえと、あなたは言うのでしょ
うか。
実ることのない恋をしてしまった自分自身の
人生が、いかにも痛ましいものとして見つめ
ています。
注・・難波潟=大阪湾の一部。「難波」は現在の大
阪市やその周辺の古称。
芦=イネ科の多年草。水辺に自生し、高さは
2~4mになるが、節と節との間は短い。
この世=男女の仲、人生、世間。ここでは
男女の仲から人生の意に広がっている。
過ぐしてよ=過ごしてしまえ。「てよ」は
完了の助動詞「つ」の命令形。
とや=「とや言ふ」の略。というのか。
作者・・伊勢=877~938。伊勢守藤原継陰の娘。代表
的な女流歌人。
過ぐしてよとや
伊勢(いせ)
(新古今集・1049、百人一首・19)
(なにわがた みじかきあしの ふしのまも あわで
このよを すぐしてよとや)
意味・・難波潟の芦の、その短い節と節の間のような、
ほんのわずかな間も逢わないまま、私にこの
世を終えてしまえと、あなたは言うのでしょ
うか。
実ることのない恋をしてしまった自分自身の
人生が、いかにも痛ましいものとして見つめ
ています。
注・・難波潟=大阪湾の一部。「難波」は現在の大
阪市やその周辺の古称。
芦=イネ科の多年草。水辺に自生し、高さは
2~4mになるが、節と節との間は短い。
この世=男女の仲、人生、世間。ここでは
男女の仲から人生の意に広がっている。
過ぐしてよ=過ごしてしまえ。「てよ」は
完了の助動詞「つ」の命令形。
とや=「とや言ふ」の略。というのか。
作者・・伊勢=877~938。伊勢守藤原継陰の娘。代表
的な女流歌人。
2010年09月26日
名歌鑑賞・1244
われが身に故郷ふたつ秋の暮れ
吉分大魯(よしわけたいろ)
(蘆陰句選)
(われがみに ふるさとふたつ あきのくれ)
前書・・国を辞して九年の春、都を出て一とせの秋。
意味・・故郷徳島を離れてすでに九年にもなり、その
なつかしさは当然のことであるが、住み慣れ
た京都を出て一年たった今となってみると、
その京都へのなつかしさもひとしおのもので、
秋の暮にしみじみと感慨にふけり、感じやすく
なっている自分の心には、二つながらともに
なつかしい故郷である。
注・・秋の暮=秋の終わり、秋の夕べ。ここでは秋
の夕べの意。
作者・・吉分大魯=1730~1778。阿波国(徳島県)の藩士。
俳諧を好み職を辞して京都に上り蕪村に学ぶ。
句集に「蘆陰(ろいん)句選」
吉分大魯(よしわけたいろ)
(蘆陰句選)
(われがみに ふるさとふたつ あきのくれ)
前書・・国を辞して九年の春、都を出て一とせの秋。
意味・・故郷徳島を離れてすでに九年にもなり、その
なつかしさは当然のことであるが、住み慣れ
た京都を出て一年たった今となってみると、
その京都へのなつかしさもひとしおのもので、
秋の暮にしみじみと感慨にふけり、感じやすく
なっている自分の心には、二つながらともに
なつかしい故郷である。
注・・秋の暮=秋の終わり、秋の夕べ。ここでは秋
の夕べの意。
作者・・吉分大魯=1730~1778。阿波国(徳島県)の藩士。
俳諧を好み職を辞して京都に上り蕪村に学ぶ。
句集に「蘆陰(ろいん)句選」
2010年09月24日
名歌鑑賞・1443
しののめの 空霧わたり 何時しかに 秋の景色に
世はなりにけり
紫式部(むらさきしきぶ)
(玉葉和歌集)
(しのしめの そらきりわたり いつしかに あきの
けしきに よはなりにけり)
意味・・夏だから暑い暑いと思って過ごしていたある日、
ふと朝早く起きて外に出てみると、ひんやりと
秋の気配が感じられる。夜が明けきれば、日差
しが夏の暑気をよみがえらせる。しかし、朝霧
が立ち込めているこのひと時、思いがけない秋
がそこに来ていた。
早い朝の静寂さが余情として残ります。
注・・しののめ=東雲。明け方のほのかに空が白んで
くる頃。
作者・・紫式部=978~1016。「源氏物語」「紫式部日記」
世はなりにけり
紫式部(むらさきしきぶ)
(玉葉和歌集)
(しのしめの そらきりわたり いつしかに あきの
けしきに よはなりにけり)
意味・・夏だから暑い暑いと思って過ごしていたある日、
ふと朝早く起きて外に出てみると、ひんやりと
秋の気配が感じられる。夜が明けきれば、日差
しが夏の暑気をよみがえらせる。しかし、朝霧
が立ち込めているこのひと時、思いがけない秋
がそこに来ていた。
早い朝の静寂さが余情として残ります。
注・・しののめ=東雲。明け方のほのかに空が白んで
くる頃。
作者・・紫式部=978~1016。「源氏物語」「紫式部日記」
2010年09月23日
2010年09月22日
名歌鑑賞・1240
身代は まはりかねたる 車引き つらきうき世を
おし渡れども
紀定丸(きのさだまる)
(徳和歌後万載集)
(しんだいは まわりかねたる くるまひき つらき
うきよを おしわたれども)
意味・・つらいこの浮世を、難儀な道に車を押すように、
何とかして渡っていこうとするのだが、車引き
の仕事では、車は回っても身代は回りかねて、
とかく思うようにならない。
横に車を押すことも出来ないような下層労働者
の生活の嘆声を詠んでいる。
注・・身代=生計、暮し向き。
車引き=荷車などを引いて生活する人。今では
派遣労働者の立場。
まはりかねたる=思うようにいかない。
おし渡れども=困難を排して渡る。
作者・・紀定丸=1760~1841。吉見義方。四方赤良の甥。
御勘定組頭。「狂月望」「黄表紙」。
おし渡れども
紀定丸(きのさだまる)
(徳和歌後万載集)
(しんだいは まわりかねたる くるまひき つらき
うきよを おしわたれども)
意味・・つらいこの浮世を、難儀な道に車を押すように、
何とかして渡っていこうとするのだが、車引き
の仕事では、車は回っても身代は回りかねて、
とかく思うようにならない。
横に車を押すことも出来ないような下層労働者
の生活の嘆声を詠んでいる。
注・・身代=生計、暮し向き。
車引き=荷車などを引いて生活する人。今では
派遣労働者の立場。
まはりかねたる=思うようにいかない。
おし渡れども=困難を排して渡る。
作者・・紀定丸=1760~1841。吉見義方。四方赤良の甥。
御勘定組頭。「狂月望」「黄表紙」。
2010年09月21日
名歌鑑賞・1239
夕煙 今日はけふのみ たてておけ 明日の薪は
あす採りてこむ
橘曙覧(たちばなあけみ)
(橘曙覧歌集・37)
(ゆうけぶり きょうはきょうのみ たてておけ あすの
たきぎは あすとりてこん)
意味・・夕煙を今日は今日だけ立てておこう。明日の
薪は、また明日採ってこよう。
日記を詳細に記していたが、煩わしくなり怠
るようになった。罪悪感に捕らわれず、良く
も悪くも自分の心の向かうままに従おう、と
いう気持の時に詠んだ歌です。
注・・夕煙=夕飯を炊く煙。
作者・・橘曙覧=1812~1868。越前福井の紙商の長男。
早く父母に死別し、家業を異母弟に譲り隠
棲(いんせい)。本居宣長の高弟の田中大秀
に入門。「独楽詠」、「信濃夫舎歌集」。
あす採りてこむ
橘曙覧(たちばなあけみ)
(橘曙覧歌集・37)
(ゆうけぶり きょうはきょうのみ たてておけ あすの
たきぎは あすとりてこん)
意味・・夕煙を今日は今日だけ立てておこう。明日の
薪は、また明日採ってこよう。
日記を詳細に記していたが、煩わしくなり怠
るようになった。罪悪感に捕らわれず、良く
も悪くも自分の心の向かうままに従おう、と
いう気持の時に詠んだ歌です。
注・・夕煙=夕飯を炊く煙。
作者・・橘曙覧=1812~1868。越前福井の紙商の長男。
早く父母に死別し、家業を異母弟に譲り隠
棲(いんせい)。本居宣長の高弟の田中大秀
に入門。「独楽詠」、「信濃夫舎歌集」。
2010年09月20日
2010年09月19日
2010年09月18日
2010年09月17日
2010年09月16日
2010年09月15日
2010年09月14日
2010年09月13日
名歌鑑賞・1231
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を
待ち出でつるかな
素性法師(そせいほうし)
(古今集・・691、百人一首・21)
(いまこんと いいしばかりに ながつきの ありあけの
つきを まちいでつるかな)
意味・・今夜暗くなったらすぐに行くよと、あなたが
言われたばかりに、私は9月の長い夜を待ち
続けているうちに、待ち人はついに来なくて
出るのが遅い月のほうが空に現れてしまいま
した。
作者は男であるが女の立場に立って詠んだ歌
です。男が「今来む」と言って来たので、女
は今か今かと待ち続けて、明け方になって有
明の月が出てしまったと、裏切られ待ちくた
びれた寂しい女の気持です。
注・・今=今すぐに。
長月=陰暦9月。
有明の月=16日以降の、夜明け方になって
も空に残っている月。
作者・・素性法師=生没年未詳。898年頃活躍した人。
待ち出でつるかな
素性法師(そせいほうし)
(古今集・・691、百人一首・21)
(いまこんと いいしばかりに ながつきの ありあけの
つきを まちいでつるかな)
意味・・今夜暗くなったらすぐに行くよと、あなたが
言われたばかりに、私は9月の長い夜を待ち
続けているうちに、待ち人はついに来なくて
出るのが遅い月のほうが空に現れてしまいま
した。
作者は男であるが女の立場に立って詠んだ歌
です。男が「今来む」と言って来たので、女
は今か今かと待ち続けて、明け方になって有
明の月が出てしまったと、裏切られ待ちくた
びれた寂しい女の気持です。
注・・今=今すぐに。
長月=陰暦9月。
有明の月=16日以降の、夜明け方になって
も空に残っている月。
作者・・素性法師=生没年未詳。898年頃活躍した人。
2010年09月12日
2010年09月11日
名歌鑑賞・1229
ながむれば 千々にもの思ふ 月にまた わが身ひとつの
峰の松風
鴨長明(かものちょうめい)
(新古今集・397)
(ながむれば ちぢにものおもう つきにまた わがみ
ひとつのみねのまつかぜ)
意味・・しみじみと見入っていると、さまざまな物思い
をさせる月に加えて、さらにまた、一人住まい
の私の身だけに吹いて、物思いをいっそう深く
させる松風だ。
山の庵に一人住む身のものとして詠んだ歌です。
次の本歌を念頭に詠んでいます。
「月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの
秋にはあらねど」 (意味は下記参照)
注・・ながむれば=ぼんやりと思いふけると、しみじみ
と見入っていると。
千々に=さまざまに。
わが身ひとつの=私の身にだけ吹いて、物思いを
いっそう深くさせる、の意。
作者・・鴨長明=~1216。62歳。従五位。1204年出家する。
「方丈記」の作者。
本歌です。
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身一つの
秋にはあらねど
大江千里(おおえのちさと)
(古今集・193、百人一首・23)
(つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみ
ひとつの あきにはあらねど)
意味・・月を見ると、私の想いは、あれこれと限りなく物悲
しくなる。私一人だけの秋ではないのだけれど。
秋の月を見て悲しく感じるのは、誰でも同じであろ
うけれども、自分だけがその悲しみを味わっている
ように思われる。
注・・ちぢに=千々に、さまざまに、際限なくの意。
もの=自分を取りまいているさまざまな物事。
峰の松風
鴨長明(かものちょうめい)
(新古今集・397)
(ながむれば ちぢにものおもう つきにまた わがみ
ひとつのみねのまつかぜ)
意味・・しみじみと見入っていると、さまざまな物思い
をさせる月に加えて、さらにまた、一人住まい
の私の身だけに吹いて、物思いをいっそう深く
させる松風だ。
山の庵に一人住む身のものとして詠んだ歌です。
次の本歌を念頭に詠んでいます。
「月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの
秋にはあらねど」 (意味は下記参照)
注・・ながむれば=ぼんやりと思いふけると、しみじみ
と見入っていると。
千々に=さまざまに。
わが身ひとつの=私の身にだけ吹いて、物思いを
いっそう深くさせる、の意。
作者・・鴨長明=~1216。62歳。従五位。1204年出家する。
「方丈記」の作者。
本歌です。
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身一つの
秋にはあらねど
大江千里(おおえのちさと)
(古今集・193、百人一首・23)
(つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみ
ひとつの あきにはあらねど)
意味・・月を見ると、私の想いは、あれこれと限りなく物悲
しくなる。私一人だけの秋ではないのだけれど。
秋の月を見て悲しく感じるのは、誰でも同じであろ
うけれども、自分だけがその悲しみを味わっている
ように思われる。
注・・ちぢに=千々に、さまざまに、際限なくの意。
もの=自分を取りまいているさまざまな物事。
2010年09月10日
2010年09月09日
2010年09月08日
2010年09月07日
名歌鑑賞・1225
逢坂の 関の清水に 影見えて 今やひくらむ
望月の駒
紀貫之(きのつらゆき)
(拾遺和歌集・170)
(おうさかの せきのしみずに かげみえて いまや
ひくらん もちづきのこま)
意味・・逢坂の関のあたりの泉の水に秋の明月の光が
射していて、その澄んだ水に姿を映しながら
今引かれていることだろうか。あの望月の牧
の馬よ。
駒迎えの屏風の絵に添えられた歌です。駒迎
えは陰暦の8月23日に行われた。
注・・逢坂の関=京から大津へ出る逢坂越えにある
関所。
望月の駒=長野県佐久郡にある放牧場の馬。
ここの貢馬の駒迎えは8月23日。
駒迎え=東国から朝廷への貢馬を逢坂の関で
出迎える年中行事。
作者・・紀貫之=866~945。「古今集」の中心的な撰者。
「土佐日記」の作者。
望月の駒
紀貫之(きのつらゆき)
(拾遺和歌集・170)
(おうさかの せきのしみずに かげみえて いまや
ひくらん もちづきのこま)
意味・・逢坂の関のあたりの泉の水に秋の明月の光が
射していて、その澄んだ水に姿を映しながら
今引かれていることだろうか。あの望月の牧
の馬よ。
駒迎えの屏風の絵に添えられた歌です。駒迎
えは陰暦の8月23日に行われた。
注・・逢坂の関=京から大津へ出る逢坂越えにある
関所。
望月の駒=長野県佐久郡にある放牧場の馬。
ここの貢馬の駒迎えは8月23日。
駒迎え=東国から朝廷への貢馬を逢坂の関で
出迎える年中行事。
作者・・紀貫之=866~945。「古今集」の中心的な撰者。
「土佐日記」の作者。
2010年09月06日
2010年09月05日
2010年09月04日
名歌鑑賞・1222
秋来ぬと目にさや豆のふとりかな
大伴大江丸(おおともおおえまる)
(はいかい袋)
(あききぬと めにさやまめの ふとりかな)
意味・・初秋とはいえ、日差しは厳しく風も吹かない。
夏と同じだ。道端の畑を見ると、さや豆が大き
くふくらんでいる。ああ、やっぱり秋は来てい
るのだ。さや豆のふとりかたに、さやかに(はっ
きりと)秋は感じられる。
藤原敏行の次の歌を踏まえた句です。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ
おどろかれぬる」 (意味は下記参照)
注・・目にさや豆=「目にさやかに」と「さや豆」の
掛詞。
作者・・大伴大江丸=1722~1805。居住地の大伴の浦から
大伴大江丸と号する。飛脚問屋を業とする。
句文集に「俳懺悔」「はいかい袋」など。
参考歌です。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ
おどろかれぬる
藤原敏行(ふじわらのとしゆき)
(古今集・169)
(あききぬと めにはさやかに みえねども かぜの
おとにぞ おどろかれぬる)
意味・・秋が来たと目にははっきり見えないけれど、
風の音にその訪れを気ずかされることだ。
見た目には夏と全く変化のない光景ながら、
確実に気配は秋になっていると鋭敏な感覚
でとらえている。とくに朝夕の風にそれが
いち早く感じられるが、歌の調べも、その
秋風を聞いているような感じです。
大伴大江丸(おおともおおえまる)
(はいかい袋)
(あききぬと めにさやまめの ふとりかな)
意味・・初秋とはいえ、日差しは厳しく風も吹かない。
夏と同じだ。道端の畑を見ると、さや豆が大き
くふくらんでいる。ああ、やっぱり秋は来てい
るのだ。さや豆のふとりかたに、さやかに(はっ
きりと)秋は感じられる。
藤原敏行の次の歌を踏まえた句です。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ
おどろかれぬる」 (意味は下記参照)
注・・目にさや豆=「目にさやかに」と「さや豆」の
掛詞。
作者・・大伴大江丸=1722~1805。居住地の大伴の浦から
大伴大江丸と号する。飛脚問屋を業とする。
句文集に「俳懺悔」「はいかい袋」など。
参考歌です。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ
おどろかれぬる
藤原敏行(ふじわらのとしゆき)
(古今集・169)
(あききぬと めにはさやかに みえねども かぜの
おとにぞ おどろかれぬる)
意味・・秋が来たと目にははっきり見えないけれど、
風の音にその訪れを気ずかされることだ。
見た目には夏と全く変化のない光景ながら、
確実に気配は秋になっていると鋭敏な感覚
でとらえている。とくに朝夕の風にそれが
いち早く感じられるが、歌の調べも、その
秋風を聞いているような感じです。