2016年10月
2016年10月31日
・秋風に はつかりがねぞ 聞ゆなる 誰がたまづさを かけて来つらむ
************** 名歌鑑賞 ***************
秋風に はつかりがねぞ 聞ゆなる 誰がたまづさを
かけて来つらむ
紀友則
(あきかぜに はつかりがねぞ きこゆなる たが
たまづさを かけてきつらん)
意味・・秋風に乗って初雁の声が聞こえて来る。
遠い北国から、いったい誰の消息を携え
て来たのであろうか。
前漢の将軍蘇武(そぶ)が囚われ、数年過
ぎた後、南に渡る雁の足に手紙をつけて
放した。それが皇帝の目にとまり、無事
帰国する事が出来たという故事に基づい
て詠まれた歌です。
飛んでいる雁を見て、別れた人々の消息、
転勤で別れた人や結婚して独立した子供、
あの人達は今どうしているだろうかと思
って詠まれています。
注・・かりがね=雁が音。雁の鳴く声。雁の異
名。
たまづさ=手紙、消息、使い。
かけて=掛けて。掛けて、取り付けて。
作者・・紀友則=きのとものり。907年頃没。
「古今和歌集」の撰者の一人。
かけて来つらむ
紀友則
(あきかぜに はつかりがねぞ きこゆなる たが
たまづさを かけてきつらん)
意味・・秋風に乗って初雁の声が聞こえて来る。
遠い北国から、いったい誰の消息を携え
て来たのであろうか。
前漢の将軍蘇武(そぶ)が囚われ、数年過
ぎた後、南に渡る雁の足に手紙をつけて
放した。それが皇帝の目にとまり、無事
帰国する事が出来たという故事に基づい
て詠まれた歌です。
飛んでいる雁を見て、別れた人々の消息、
転勤で別れた人や結婚して独立した子供、
あの人達は今どうしているだろうかと思
って詠まれています。
注・・かりがね=雁が音。雁の鳴く声。雁の異
名。
たまづさ=手紙、消息、使い。
かけて=掛けて。掛けて、取り付けて。
作者・・紀友則=きのとものり。907年頃没。
「古今和歌集」の撰者の一人。
出典・・古今和歌集・207。
2016年10月30日
・大空に ただよふ雲の しら雲の さびしき秋に なりにけるかも
**************** 名歌鑑賞 ***************
大空に ただよふ雲の しら雲の さびしき秋に
なりにけるかも
石井直三郎
(おおぞらに ただようくもの しらくもの さびしき
あきに なりにけるかも)
意味・・青い大空には白い雲が漂っている。ああ、もう
さびしい秋がきたのだなあ。
木々の梢が色づき、枯葉が落ちてくると晩秋の
淋しさが感じられる。秋の涼しい風が冷たく感
じられると晩秋であり冬が間近となる。青空に
漂う白い雲を見ていると、今は清々しく気持ち
の良いものだが、すぐに冬隣りとなってくるこ
とを思うと淋しさが湧いて来る。
作者・・石井直三郎=いしいなおざぶろう。1890~19
36。東大国文科卒。尾上柴舟らと歌誌「水瓶」
を創刊。
出典・・歌集「青樹」(東京堂出版「現代短歌鑑賞事典」)
2016年10月29日
2016年10月28日
・秋をへて 昔は遠き 大空に 我が身ひとつの もとの月影
**************** 名歌鑑賞 ****************
秋をへて 昔は遠き 大空に 我が身ひとつの
もとの月影
藤原定家
(あきをへて むかしはとおき おおぞらに わがみ
ひとつの もとのつきかげ)
意味・・幾多の秋を経て、昔は遠い彼方にある。大空には
昔を思い出させる変わらぬ月の光、そして我が身
もとの月影
藤原定家
(あきをへて むかしはとおき おおぞらに わがみ
ひとつの もとのつきかげ)
意味・・幾多の秋を経て、昔は遠い彼方にある。大空には
昔を思い出させる変わらぬ月の光、そして我が身
ばかりはもとのままである。
昔から、出世しようと頑張って来たのだがそれで
もうだつが上がらない、私だけがもとのままだ。
本歌は在原業平の次の歌です。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつは
もとの身にして」
作者・・藤原定家=ふじわらのさだいえ。1162~1241。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつは
もとの身にして」
作者・・藤原定家=ふじわらのさだいえ。1162~1241。
平安末期から鎌倉初期を生きた歌人。
出典・・定家卿百番自歌合(岩波書店「中世和歌集・鎌倉
篇」)
本歌です。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは
もとの身にして
在原業平
(つきやあらぬ はるやむかしの はるならぬ わがみ
ひとつは もとのみにして)
意味・・この月は以前と同じ月ではないのか。春は去年
の春と同じではないのか。私一人だけが昔のま
まであって、月や春やすべてのことが以前と違
うように感じられることだ。
しばらく振りに恋人の家に行ってみたところ、
しばらく振りに恋人の家に行ってみたところ、
すっかり変わった周囲の光景(すでに結婚して
いる様子)に接して落胆して詠んだ歌です。
作者・・在原業平=ありわらなりひら。825~880。美
濃権守・従四位。「伊勢物語」が有名。
出典・・古今和歌集・747。
2016年10月27日
2016年10月26日
・おく露に たわむ枝だに あるものを いかでかをらん 宿の秋萩
***************** 名歌鑑賞 ****************
おく露に たわむ枝だに あるものを いかでかをらん
宿の秋萩
橘則長
(おくつゆに たわむえだだに あるものを いかでか
おらん やどのあきはぎ)
詞書・・我が家の萩を人が分けてほしいと請いましたので
詠んだ歌。
意味・・置く露によって撓(たわ)む枝さえ痛ましく思うの
に、我が家の秋萩をどうして折れましょうか。
折れません(差し上げることは出来ませんので、
あしからず)。
見事に咲いた萩の花。人から評価されるのは嬉し
い。それで萩の一枝にこの歌をつけて贈ったのか
もしれない。
作者・・橘則長=たちばなののりなが。生没年未詳。越中
守従五位。清少納言の子供。
出典・・後拾遺和歌集・301。
2016年10月25日
・まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶればまぶたの重し
***************** 名歌鑑賞 ****************
まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶれば
まぶたの重し
窪田空穂
(まつはただ いしあるのみの きようなれど まなこ
つぶれば まぶたのおもし)
意味・・今日のところ、ただ残されているのは、死にた
くないという自らの意志だけだか、それもおぼ
つかなくなり、眼をつぶればそのまま眠ってし
まいそうになる程、気力がなくなってきた。
91才で亡くなる数日前に詠んだ歌です。
頑張る意志があるが、もう駄目だと歌っている
のでなく、力を振り絞って詠み、なおかつ生き
続けたいという気持ちです。
注・・まつは=死にたくないと待つのは。
作者・・窪田空穂=くぼたうつほ。1877~1967。早稲
田大学卒。早稲田大学教授。
出典・・岩田正著「短歌のたのしさ」。
2016年10月24日
・ジャージーの 汗滲む ボール横抱きに 吾駆けぬけよ 吾の男よ
***************** 名歌鑑賞 *****************
ジャージーの 汗滲む ボール横抱きに 吾駆けぬけよ
吾の男よ
佐々木幸綱
(ジャージーの あせにじむ ボールよこだきに われ
かけぬけよ われのおとこよ)
意味・・ジャージーを汗でぐしょ濡れにして燃え上って
いる男なんだ。それで何としてでも、ラグビー
のボールを横抱きにしながら、この場を駆け抜
けるのだ。男らしい男の見せ場として。
ラグビーの試合でボールをしっかり持ちながら、
相手のタックルを外しながら懸命に疾走してい
る状態です。
作者・・佐々木幸綱=ささきゆきつな。1938~ 。早稲
田大学卒。早稲田大学教授。
出典・・群黎(ぐんれい)(岩田正著「短歌のたのしさ」)
2016年10月23日
・梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと 葵花咲く
**************** 名歌鑑賞 ****************
梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと
葵花咲く
詠み人知らず
(なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの のちも
あわんと あういはなさく)
意味・・梨・棗・黍(きび)・粟と次々に実のっても、私は
早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続け
る葛のように後には逢えるよ、葵の花が咲く頃に
葵花咲く
詠み人知らず
(なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの のちも
あわんと あういはなさく)
意味・・梨・棗・黍(きび)・粟と次々に実のっても、私は
早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続け
る葛のように後には逢えるよ、葵の花が咲く頃に
は。
植物六種の取り合せと掛詞の面白さを詠んでいる。
注・・梨棗=字音の等しい「離・早(りそう)」を掛ける。
黍(きみ)に粟つぎ=「君に逢わず」を掛ける。
延(は)ふ葛=「後は逢はむ」の枕詞。
葵(あふひ)=アオイ科の草。「逢う日」を掛ける。
注・・梨棗=字音の等しい「離・早(りそう)」を掛ける。
黍(きみ)に粟つぎ=「君に逢わず」を掛ける。
延(は)ふ葛=「後は逢はむ」の枕詞。
葵(あふひ)=アオイ科の草。「逢う日」を掛ける。
出典・・万葉集・3834。
2016年10月22日
・地つき唄ほがらかな朝の群衆なり
**************** 名歌鑑賞 ***************
地つき唄ほがらかな朝の群衆なり
山頭火
(ちつきうた ほがらかなあさの ぐんしゅうなり)
意味・・地つき歌を唄いながら、朗らかに仕事をしてい
る朝の人たちを見ると、ああして朗らかに働け
たらなあと思うのだ。
この句を詠んだ頃の山頭火は酒造業をしていて、
店番やセールスをして働いていた。気力が無い
ためかすぐにくたびれてしまう。くたびれると
酒を飲むという状態を送っていた。そんな時に
力仕事をしている人達を見て、自分もあのよう
に一生懸命働けたらいいなあ、という思いを詠
んでいます。
作者・・山頭火=さんとうか。種田山頭火。1882~19
40。荻原井泉水に師事。「層雲」に出句。母と
弟の自殺、家業の酒造業の失敗など不幸が重な
る。禅僧として行乞流転の旅を送る。
出典・・金子兜太著「放浪行乞・山頭火百二十句」。
2016年10月21日
・ありし日は ゆきなれにし 道なるを 行きまよひたり この焼野原
*************** 名歌鑑賞 ****************
ありし日は ゆきなれにし 道なるを 行きまよひたり
この焼野原
岡野直七郎
(ありしひは ゆきなれにし みちなるお ゆきまよい
たり このやけのはら)
意味・・昔は行き来になれた道だったのに、今は焼野原
となって道を行き迷ってしまった。
大正十二年九月一日の関東大震災を詠んだ歌で
す。昼時に近かったので火災が起り、東京は三
昼夜燃え続けたという。そして全東京の七割が
焼野原になった。当時の東京の人口二百二十六
万人に対して家屋全壊一万戸、焼失二十七万戸、
死者六万五千人、行方不明者三万五千人の被害
が出た。
作者・・岡野直七郎=おかのなおしちろう。1896~19
86。東大法学部卒。尾上柴舟の「水甕」に加わ
る。大正・昭和の歌人。
出典・・歌集「谷川」(桜楓社「現代名歌鑑賞事典」)
2016年10月20日
・草むらの 虫の声より くれそめて 真砂の上ぞ 月になりぬる
**************** 名歌鑑賞 ****************
草むらの 虫の声より くれそめて 真砂の上ぞ
月になりぬる
光厳院
(くさむらの むしのこえより くれそめて まさごの
うえぞ つきになりぬる)
意味・・草むらの虫が鳴きはじめると、その頃から暮れ
はじめ、今すっかり日が暮れた庭の砂の上には
月の光が満ちている。
涼しく鳴く虫の音と澄んだ月の光に、爽(さわ)
やかさを感じています。
注・・真砂=細かい砂、白州。
作者・・光厳院=こうごういん。1313~1364。北朝第
一代の天皇。風雅和歌集の撰に自らもあたたっ
た。
出典・・風雅和歌集。
2016年10月19日
2016年10月18日
2016年10月17日
・こころみに ほかの月をも みてしがな わが宿からの あはれなるかと
**************** 名歌鑑賞 ***************
こころみに ほかの月をも みてしがな わが宿からの
あはれなるかと
花山院
(こころみに ほかのつきをも みてしがな わがやど
からの あわれなるかと)
意味・・ためしに他所の月を見てみたいものだ。見る
場所がこの家ゆえの素晴らしさなのかどうか
あはれなるかと
花山院
(こころみに ほかのつきをも みてしがな わがやど
からの あわれなるかと)
意味・・ためしに他所の月を見てみたいものだ。見る
場所がこの家ゆえの素晴らしさなのかどうか
と。
見る人の状態、すなわち自分の気持ちや立場、
場所などが最良の時に素晴らしい月が見られ
るのです。
注・・あはれ=喜楽・悲哀などの感動を表す語。
すてきだ、悲しい、気の毒だ。
作者・・花山院=かざんいん。968~1008。65代天皇。
作者・・花山院=かざんいん。968~1008。65代天皇。
退位後出家。
出典・・詞歌和歌集・300。
2016年10月16日
・われらかって 魚なりし頃 かたらひし 藻の陰に似る ゆふぐれ来たる
***************** 名歌鑑賞 ******************
われらかって 魚なりし頃 かたらひし 藻の陰に似る
ゆふぐれ来たる
水原紫苑
(われらかって うおなりしころ かたらいし ものかげに
にる ゆうぐれきたる)
意味・・そういえば、私たちが魚であったあの頃、ゆらゆら
揺れる藻の陰に憩いながら、語りあったわねえ。今
日の夕暮れって、あの感じに似ているような気がす
るんだけど。
進化の樹木をさかのぼってゆくと、生命の歴史は海
から始まる。我ら人間は、脊椎動物の先端にいるわ
けだが、その根っこのところに魚族がいる。そして
作者はこうつぶやくのだ。あなたと私は、ヒトがヒ
トのかたちとなるずっと以前から、こうして寄り添
いあっていた・・ということを、とくに肩に力の入
った様子もなく、さりげなく言っている。二人の運
命的な結びつきだと語っている。
作者・・水原紫苑=みずはらしおん。1959~ 。早稲田大学
文学部卒。「中部短歌会」所属。
出典・・俵万智著「あなたと読む恋の歌百首」。
2016年10月15日
・ダイナモの 重き唸りの ここちよさよ あはれこのごとく 物を言はまし
***************** 名歌鑑賞 ***************
ダイナモの 重き唸りの ここちよさよ あはれこのごとく
物を言はまし
石川啄木
(ダイナモのおもきうなりの ここちよさ あわれ
このごとく ものをいわまし)
意味・・発電機の豪快な唸りのなんと快いことか。ああ、
自分もこのように物を言いたいものである。
発電機の重厚な力強さに共鳴し、自分もそのよ
うに力強く生きて行きたいと詠んでいます。
注・・ダイナモ=発電機。
あはれ=喜楽・悲哀などの感動を表す語。ああ。
まし=現実に存在しないことを仮定し、また期
待する語。
作者・・石川啄木=いしかわたくぼく。1886~1912。26
歳。盛岡尋常中学校中退。与謝野夫妻に師事する
ために上京。
出典・・一握の砂。
2016年10月14日
・玉ならば 手にも巻かむを うつせみの 世の人なれば 手に巻きかたし
**************** 名歌鑑賞 *****************
玉ならば 手にも巻かむを うつせみの 世の人なれば
手に巻きかたし
坂上大嬢
(たまならば てにもまかんを うつせみの よの
ひとなれば てにまきかたし)
意味・・わたし、あなたが玉だったらいいのに、っていつも
思うの。そしたら、腕輪にして肌身はなさず手に巻
いておけるのに。でも、あなたは玉なんかじゃなく
て、この世の人ですもの。無理な話よね。
大伴家持に贈った歌です。
注・・うつせみ=この世に生きている人、この世、現世。
作者・・坂上大嬢=生没年未詳。大伴旅人の異母妹。
出典・・万葉集・729。
2016年10月13日
・くろかみも ながかれとのみ かきなでし など玉のをの みじかかりけむ
************** 名歌鑑賞 ***************
くろかみも ながかれとのみ かきなでし など玉のをの
みじかかりけむ
木下長嘯子
(くろかみも ながかれとのみ かきなでし など
たまのおの みじかかりけん)
意味・・黒髪も長くなれとばかり愛撫してやった娘
の命は、どうして短かったのだろう。
娘を亡くした親の嘆きを歌っています。
注・・のみ=限定する意を表す、・・だけ。強調
する意を表す。
玉のをの=玉の緒。短きの枕詞。命、生命。
なぞ=何故。なぜ、どして。
作者・・木下長嘯子=きのしたちょうしょうし。15
69~1649。秀吉の近臣。小浜城主。
出典・・小学館「近世和歌集」。
2016年10月12日
2016年10月11日
・更けにけり 山の端近く 月冴えて 十市の里に 衣打つ声
****************** 名歌鑑賞 *****************
更けにけり 山の端近く 月冴えて 十市の里に
衣打つ声
式子内親王
(ふけにけり やまのはちかく つきさえて とおちの
式子内親王
(ふけにけり やまのはちかく つきさえて とおちの
さとに ころもうつこえ)
意味・・夜が更けてしまったことだ。山の端近くに月の光が
意味・・夜が更けてしまったことだ。山の端近くに月の光が
冷たく澄み、遠い十市の里で衣を打つ音が聞こえる。
山の端の冴えた月の光と、遥かな十市の里の砧(き
山の端の冴えた月の光と、遥かな十市の里の砧(き
ぬた)の音とで、夜更けに気がついた。その情景(砧
を打つ女性の夜なべ作業)にしみじみした思いと哀
感を詠んでいます。
注・・山の端=山の上部で空と接する部分。
十市(とおち)=奈良県橿原(かしはら)にある十市町。
「遠・とお」を掛けている。
衣打つ=衣を柔らかくしたり光沢を出すため、木槌
で布を打つ(砧・きぬた)のこと。女性の夜なべ作業
であった。
十市(とおち)=奈良県橿原(かしはら)にある十市町。
「遠・とお」を掛けている。
衣打つ=衣を柔らかくしたり光沢を出すため、木槌
で布を打つ(砧・きぬた)のこと。女性の夜なべ作業
であった。
作者・・式子内親王=しょくしないしんのう。1201年没。後
白河上皇の第二皇女。高倉宮斎宮。
出典・・新古今和歌集・485。
2016年10月10日
・さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを 幾世の底より 鐘の鳴りくる
***************** 名歌鑑賞 ****************
さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを 幾世の底より
鐘の鳴りくる
明石海人
(さくらばな かつちるきょうの ゆうぐれを いくよの
そこより かねのなりくる)
意味・・さくらの花がはらはらと散り急ぐ春の夕暮れ、時を
知らせる鐘の音に耳を澄ませば、走馬燈のように、
美しい思い出が甦(よみがえ)って来る。
ハンセン病のために、作者の視力は無くなり、五官
のうち聴力しか残っていない日々死と隣り合わせの
苦悩の中で詠んだ歌です。花びらのかすかな擦れ合
う音を感じて詠んでいます。
どうしてこんな明るい歌が詠めるのだろうか。
病苦の中、歌集「白描」を出版しますが、その前書
に次の言葉が書かれています。
「深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ
何処にも(希望の)光はない」
注・・かつ散る=花が散りその上また散る。
幾世=多くの年月。
底=心の底、真底。ここでは思い出の底よりの意。
作者・・明石海人=あかしかいじん。1901~1939。昭和3年
ハンセン病と診断され岡山県の長島愛生園で療養生活
を送る。盲目になり喉に吸気官を付けながらの闘病の
中、歌集「白描」を出版。
出典・・歌集「白描」。
2016年10月09日
・ゆっくりと 浮力をつけて ゆく凧に 龍の字が見ゆ 字は生きて見ゆ
****************** 名歌鑑賞 *****************
ゆっくりと 浮力をつけて ゆく凧に 龍の字が見ゆ
字は生きて見ゆ
岡井隆
(ゆっくりと ふりょくをつけて ゆくたこに りゅう
のじがみゆ じはいきてみゆ)
意味・・ゆっくりと風に押し上げられて、スムーズに昇って
いく凧に、くっきりと「龍」の字が見える。舞い上
った凧の龍の字は生き生きとして見える。
凧が中天に上がり、しかるべき場を得たことによっ
て、はじめて「龍」の字が、確かなる己の存在を主
張していると詠んだ歌です。「龍」を喩(たとえ)と
して人間の生きる確かなる場、が詠まれています。
作者・・岡井隆=おかいたかし。1928~ 。慶応義塾大学
医学部卒。医学博士。
出典・・歌集「鵞卵亭(がらんてい)」(桜楓社「現代名歌鑑
賞事典」)
2016年10月08日
・見し春も まがきの蝶の 夢にして いつしか菊に うつる花かな
***************** 名歌鑑賞 ****************
見し春も まがきの蝶の 夢にして いつしか菊に
うつる花かな
後水尾院
(みしはるも まがきのちょうの ゆめにして いつしか
きくに うつるはなかな)
意味・・春、籬(まがき)に花が満ちていた光景を見たのは
籬を飛ぶ蝶の夢であって、いつの間にか秋の終わ
りの菊の花の季節となった。
春咲いた花を見たのは夢であったかのように、今
は菊の花が真っ盛りに咲いている季節となった。
注・・菊にうつる=秋の終わりに咲く菊の季節になる。
作者・・後水尾院=ごみずのおいん。1596~1680。後陽
成天皇の第三皇子。108代天皇。
出典・・御着到百首(小学館「中世和歌集」)
2016年10月07日
・桐の葉も 踏み分けがたく なりにけり かならず人を 待つとなけれど
**************** 名歌鑑賞 ****************
桐の葉も 踏み分けがたく なりにけり かならず人を
待つとなけれど
式子内親王
(きりのはも ふみわけがたく なりにけり かならず
ひとを まつとなけれど)
意味・・桐の落ち葉も、踏み分けにくいほど深く積もって
しまったことだ。きっと来るに違いないと思って、
人を待っているというのではないのだけれど。
当時は一夫多妻制なので夫は妻の家に通っていた。
妻は夫を待つ身です。
深い諦めの底にある打ち消しがたい人恋しさが表
れています。
作者・・式子内親王=しよくしないしんのう。1201年没。
後白川上皇の第二皇女。高倉宮齋院。
出典・・新古今和歌集・534。
2016年10月06日
・日は日なり わがさびしさは わがのなり 白昼なぎさの 砂山に立つ
*************** 名歌鑑賞 ***************
日は日なり わがさびしさは わがのなり 白昼なぎさの
砂山に立つ
若山牧水
(ひはひなり わがさびしさは わがのなり まひる
なぎさの すなやまにたつ)
意味・・太陽は太陽,自分は自分、何のかかわりもなく、
自分の味わっているこの寂寥(せきりょう)は
どこまでも自分だけのものだ。そして人影の
ない真昼の海岸の砂山に立って失意の果ての
孤独を噛みしめている。
若さに満ち溌剌として、希望に燃えていた少
し前までの自分を思い浮かべ、恋愛にも仕事
にも失敗し、希望も意欲もすっかり失ってし
まった現在の自分のみじめな姿を詠んいます。
牧水はこの苦悩を,旅をし酒を飲み歌を詠ん
で克服しています。
注・・日は日=「日」は太陽。「自分は自分」を補
って解釈。
さびしさ=わびしさ。二人の女の子のいる女性
との恋愛の失敗、文芸雑誌の創刊が資金難で
失敗、思わしい就職口がない、などの苦悩。
わがのなり=わがものなり。
なぎさ=波打ち際。ここでは海岸ぐらいの意。
作者・・若山牧水=わかやまぼくすい。1885~1928。
早稲田大学卒。尾上柴舟に師事。旅と酒を愛
す。
出典・・大悟法利夫著「鑑賞 若山牧水の秀歌」。
2016年10月05日
・ぬき足に虫の音わけてきく野かな
*************** 名歌鑑賞 ***************
ぬき足に虫の音わけてきく野かな
池西言水
(ぬきあしに むしのねわけて きくのかな)
意味・・野原一面に虫の音が聞こえる。せっかく鳴いて
いる虫を、驚かせてしまってはいけないので、
抜き足さし足で、そっと虫の声を分けるように
野中に歩み入って、虫の声の中にひたるように
聞いている。
「虫の音わけて」というところに、虫の声に静
かに身をひたす緊張感と満足感が表れている。
注・・ぬき足=抜き足。足を静かに抜き出すように上
げて歩くこと。足をそっとおろす意の差し足
とともに、抜き足差し足という熟語として用
いる。
虫=秋の夜に鳴く種々の虫の総称。
作者・・池西言水=いけにしごんすい。1650~1722。
出典・・句集「夏木立」(小学館「近世俳文俳句集」)
2016年10月04日
・幼子の 玩具の電話 雨ふれる 夜に聴けば しきりに 蝸牛を呼べり
***************** 名歌鑑賞 *****************
幼子の 玩具の電話 雨ふれる 夜に聴けば しきりに
蝸牛を呼べり
大野誠夫
(おさなごの がんぐのでんわ あめふれる よるに
きけば しきりにかたつむりを よべり)
意味・・幼子が雨の降っている夜に、玩具の電話で遊ん
でいる。父親である私が聞いていると、彼は「
もしもし、かたつむりさんですか」などと、し
きりにその電話で蝸牛を呼んでいる。
作者・・大野誠夫=おおののぶお。1914~1984。昭和
時代の歌人。
出典・・歌集「胡桃の枝の下」(桜楓社「現代名歌鑑賞
事典」)
2016年10月03日
・見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心もしらぬ なでしこの花
*************** 名歌鑑賞 **************
見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心もしらぬ
なでしこの花
上東門院
(みるままに つゅぞこぼれる おくれにし こころも
しらぬ なでしこのはな)
詞書・・(夫である)一条院がお亡くなりになって後、
撫子の花のありましたのを、(我が子の)後
一条院が当時幼少でいらして、無心に撫子
の花を弄(もてあそ)んでいましたので、詠
みました歌。
意味・・いとしい我が子の姿を見るにつけても涙が、
こぼれます。父に死に分かれた悲しい心も
知らないで、無心に撫子の花を手に持って
いる愛(いと)しい我が子よ。
注・・見るままに=いとしい我が子の姿を見るに
つけて。「我が子」が省略されている。
露ぞこぼるる=撫子に置いた露と、涙の露
を掛けている。
おくれ=生き残る、先立たれる。
おくれにし心もしらぬ=父に死に別れた悲
しい心も分からぬ。
なでしこの花=撫子。花の名と「撫でし子」
を掛けている。ここでは幼少の後一条院を
さす。
作者・・上東門院=じょうともんいん。988~1074。
一条天皇中宮彰子。藤原道長の娘。出家後
上東門院と呼ばれる。後一条の母。紫式部・
和泉式部・相模らが仕えた。
出典・・後拾遺和歌集・569。
2016年10月02日
・奥山に 紅葉踏みけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
**************** 名歌鑑賞 ****************
奥山に 紅葉踏みけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ
秋は悲しき
詠人知らず
(おくやまに もみじふみわけ なくしかの こえきく
ときぞ あきはかなしけれ)
意味・・深い山の奥にいて、紅葉の吹き散っている山路を
歩いていると、鹿の鳴く声が聞こえてくる。秋の
悲しさがひとしお身にしみるのは、こんな時なの
だ。
秋は収穫の時節なので喜ぶべき季節なのだが、古
今集以降の歌では悲哀の季節として詠まれている。
それは、秋を生命が衰え滅びる時節ととらえ、そ
れに自らの人生の時間を重ね、人間存在のはかな
さを意識する時「秋は悲し」の季節感覚が生まれ
てくるのであろう。
注・・鳴く鹿の=秋に雄鹿は雌鹿を求めて鳴くとされ、
そこに遠く離れた妻や恋人を恋慕する心情を重
ねている。
声聞く時ぞ=秋を悲しく感じる時は他にも色々あ
るけれど、鹿の声を聞くその時がとりわけ。
秋は=「は」は他と区別してとりたてていうのに
用いる。他の季節はともかく秋は。
出典・・古今和歌集・215、百人一首・5。
2016年10月01日
・いつかふたりに なるためのひとり やがてひとりに なるためのふたり
**************** 名歌鑑賞 ****************
いつかふたりに なるためのひとり やがてひとりに
なるためのふたり
浅井和代
(いつか二人に なるための一人 やがて一人に なる
ための二人)
意味・・今、自分が一人でいるということ。それは、どんな
人とも二人になることが出来る可能性を秘めた状態
なのだ。そして今、自分が二人でいるとしら、それ
はやがてくる別れを含んだ状態である。人の心も生
命も永遠ではないのだから・・。
一人は二人に、そして二人は一人に・・。
希望は絶望を含み、絶望は希望へと繋(つな)がり、
幸福は不幸を含み、不幸は幸福へと繋がる。人生
において対立するかのように見えるものは、実は
同じことの表と裏なのだ・・・。表記の歌はそん
なふうに捉えることもできる。
作者・・浅井和代=あさいかずよ。1960~ 。奈良県生ま
れ。「新短歌」所属。
出典・・歌集「春の隣」(俵万智著「あなたと読む恋の歌百
首」)